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細川家の「乱世生き残り戦略」を解説…公益財団法人肥後の水とみどりの愛護

2018年9月26日(水)

 肥後の里山ギャラリーを運営する公益財団法人肥後の水とみどりの愛護基金(甲斐隆博理事長)は9月15日、熊本市中央区練兵町の同ギャラリーで永青文庫研究センター長の稲葉継陽熊本大学教授による歴史文化講座を開いた。定員を大幅に上回る約80人が聴講した。
 演題は、細川家と「関ケ原」。講演は、織田、豊臣、徳川へと「政権交代」が相次いだ近世初頭を細川家がどう乗り切ったのか、永青文庫所蔵の史料などをもとに考察。天下分け目といわれる関ケ原の戦い前後の細川家の人々と石田三成、徳川家康の人間関係などを中心に細川家の乱世生き残り戦略を解説した。
 稲葉教授は秀吉の文化ブレーンとしての初代幽斎の役割や豊臣政権の分裂と二代忠興の政治的立場について解説。忠興が造営を支援した丹後匡与謝郡野村孫太郎神社の棟札に記されている「怨敵滅亡」の文字に注目し、「怨敵とは石田三成にほかならず、忠興と三成が関ケ原以前から犬猿の仲であったことを暗示している」と説明した。また三成妹婿の福原長尭が保持していた豊後杵築領6万石を没収して忠興に給与したことで、石田派奉行と家康との対立が深まった事実に言及、「忠興は家康独裁による最初の受益者であり、三成からすれば家康を糾弾する上での象徴的存在だった。これは関ケ原緒戦の田辺城包囲戦や拘束を目論んで失敗に終わったガラシャ夫人の死と決して無関係ではない」などと説明した。関ケ原戦後、細川家が豊前・豊後の国持大名に栄転し、その後加藤家に代わって熊本藩主におさまった背景には、家康の人質となっていた3代忠利が将軍秀忠の信頼を獲得したこと、その過程で2人の兄が失脚していく人間模様があり、もっとも多難な時代を多くの犠牲を払いながら乗り切った草創期の肥後細川家のしたたかな「乱世生き残り戦略」に来場者は興味深げだった。(佐藤)

当日は約80人が聴講した
講演する稲葉教授。「石田三成の忠興への憎悪には激しいものがあり、その脈絡の中で田辺城攻囲戦やガラシャの自刃がある」などと説明した
細川三代の乱世生き残り術に興味深げな受講者。熱心にメモを取る姿も
中央区練兵町の肥後の里山ギャラリー