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 熊本城築城400年回顧
 →熊本城ものがたり (第1回)
くま経プレス 2007年1月 vol.204


現在の熊本城外観
 熊本城は2007年、築城400年に。熊本市の中心にありながら、市民でもまだ登城したことがない人がいます。そこで、今月号からシリーズで「熊本城とは」をテーマに、日本3大名城の一つに挙げられる熊本城の歴史を振り返ります。

加藤清正の以前の居城は「隈本城」

 現在の熊本城はかつて茶臼山(ちゃうすやま)と呼ばれた丘陵地に、慶長6年(1601年)から慶長12年(1607年)にかけて、加藤清正が築いた城ですが、それ以前にもこの茶臼山一帯には中世城が存在しました。このことからも茶臼山は肥後の要であるといえるでしょう。
 記録に残る最古の城は、応仁年間(1467年〜1469年)に茶臼山の東端に築かれた千葉城(ちばじょう)で、城主は菊池一族の出田秀信です。
 次に明応5年(1496年)に同じ菊池一族の鹿子木親員(かのこぎちかかず)、別名鹿子木寂心(かのこぎじゃくしん)が、茶臼山西南麓に「隈本城」を築きました。城の規模や場所は判然としませんが、現在の古城(こじょう)と呼ばれる一帯にあったようです。
 その後、九州も菊地氏、大友氏、島津氏、龍造寺(りゅうぞうじ)氏などが争う戦乱の時代を迎え、隈本城には天文19年(1550年)、大友氏の配下・城親冬(じょうちかふゆ)が入ることになりました。
 天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定により、佐々成政(さっさなりまさ)
が領主として肥後に入国しますが、検地の強行などにより国衆一揆を引き起こし、成政は切腹。翌年、肥後は北半分を加藤清正に、南半分を小西行長に分け与えられることになりました。このとき清正が居城としたのも隈本城でした。 (熊本市資料から)

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