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 熊本城物語(第2回)
 →熊本城ものがたり  第2回 肥後54万石の大大名だった加藤清正
くま経プレス 2007年2月 vol.205


 加藤清正は永禄5年(1562年)6月24日、尾張国(おわりのくに)生まれで、豊臣秀吉とは血縁関係にあり、双方の母親が従姉妹同士だったという説もあります。幼名を夜叉丸(やしゃまる)といい、9歳の頃から秀吉に仕え、元服してから加藤虎之助清正を名乗りました。
 初陣がいつかは明らかではありませんが、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは「七本槍」の1人に数えられ、その後も数々の武功を立てました。
 天正16年(1588年)、清正はそれまでの侍大将から、いっきに肥後北半国19万5000石の領主を任命されます。清正27歳のときでした。前年に佐々成政(さっさなりまさ)が肥後統治に失敗した後を受けたものでした。入国当時の肥後は国衆(こくしゅう)と呼ばれる土豪がひしめく難地の国で、しかも長引く戦乱で国内は荒れ果てていました。当時、肥後を訪れた宣教師が「これほど貧しい国は見たことがない」と書き残しているほどです。
 入国後、清正は治山治水、新田開発などに力を入れ、また、南蛮貿易に乗り出すなど、積極的に領地経営を進め、国はどんどん豊かになり、結果、領民からは神様のように慕われるようになりました。今でも熊本では善政の事跡はすべて「せいしょこさんのさしたごつ(清正公のなさったこと)」となるのです。
 文禄・慶長の役では主力として7年間戦い続け、秀吉の死後起きた関ヶ原の合戦では、石田三成(いしだみつなり)、小西行長(こにしゆきなが)らとの確執から東軍につき、小西滅亡後は肥後南半国も領して、実質ともに54万石の大大名にとなります。関ヶ原で東軍についたとはいえ、豊臣家に対する清正の想いは並大抵のものではなく、慶長16年(1611年)二条城で秀吉の遺児秀頼と徳川家康を会見させることに成功しました。
 これで豊臣家も安泰かと思われましたが、清正は二条城の会見から熊本に帰る船中で発病し、熊本城で亡くなりました。享年50歳。奇しくも生まれた日と同じ6月24日でした。豊臣家も清正の没後わずか4年で大阪夏の陣に破れてしまいます。
 加藤家の菩提寺本妙寺(ほんみょうじ)では、毎年清正の命日(新暦7月23日〜24日)に頓写会(とんしゃえ)と呼ばれる法要が行われ、多くの参拝客で賑わいます。                 (熊本市資料から)

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