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 →熊本城ものがたり  第5回
くま経プレス 2007年5月 vol.208


秀頼を想い増築された小天守
優美で堅牢といわれている熊本城の石垣
豊臣秀頼を想い小天守を増築

 加藤清正は豊臣家が一朝有事の際、豊臣秀頼を熊本に迎え入れ、西国代表を率いて徳川に対抗する心積もりがあり、そのために熊本城という巨大要塞を築いたという説があります。
 小天守は石垣の構造等から大天守成立後に増築されたことが分かります。この増築は秀頼のためだというのです。
 確かに大天守の各部屋には「鉄砲の間」「具足(ぐそく)の間」「矢の間」「弁当の間」「貝の間」という名前が付けられ、武器倉庫としての機能を持たされているのに対し、小天守には付書院や床が設けられ、対面所や控えの間、衣冠を整える装束の間などとして使える部屋を備えており「お成り」にも十分に耐えうる構造なのです。秀吉子飼いの清正にとって「お成り」とは秀頼以外に考えられません。さらには小天守地下1階には井戸やかまども設けられ、籠城という最悪の事態まで睨んだ増築といえるのではないでしょうか。

優美にして堅牢な石垣

 江戸時代の儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、その著書「ツ禄(けんろく)」(享保12年、1727年)の中で、「石垣ハ加藤清正ノ一流アリ。彼家ノ士ニ飯田覚兵衛。三宅角左衛門ヲ両カクトシテ石垣ノ名人ト云シモノナリ。石垣ヲ築クニハ、幕ヲ張テ、一円ニ外人ニ見セズト云。今ハ町人ノワザトナリ、武士ハ皆其術ヲ不知。清正ノ築ケルハ大阪・尾州・肥後ノ熊本ナリ」と熊本城の石垣のことを述べています。
 熊本城は明治になって、建物が次々と取り壊され、西南戦争では貴重な天守閣や本丸御殿(ほんまるごてん)までも燃えてしまいましたが、石垣はほとんどが残りました。 熊本城の最大の特徴はなんといってもこの石垣です。優美にして堅牢な石垣は「清正流」と呼ばれ江戸時代から名を馳せていました。江戸時代の「甲子夜話(かっしゃわ)」には「加藤清正ハ石垣ノ上手ニテ、熊本城ノ石垣ヲ見タルニ、高ケレ共、コバ井ナダラカニシテ、ノボルヘク見ユルママ、カエ上ルニ四五間ハ陟ラルルガ、石垣ノウエ頭上ニ覆ガヘリテ空見エズ」とその偉容が描かれています。
 熊本市ではこの石垣を永遠に子孫に伝えるため、毎年計画的に痛んだ石垣の積み替え工事を行い、保存管理に努めています。(熊本市資料から)

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