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「先生の一言で私の人生が変わった・」・日本バスケット協会の三屋裕子会長

2024年10月5日(土)

 ロサンゼルスオリンピック銅メダリストで、日本バスケットボール協会の三屋裕子会長は10月3日、熊本市中央区の熊本ホテルキャッスルで講演し、「中学校の先生の一言で私の人生が変わった」などと語った。会場には熊本第一信金の取引先・関係者約400人が出席した。
 三屋会長は、熊本第一信用金庫の感謝の集いで「バレーボールと私〜いつも燃えていたい〜」と題して講演したもの。三屋会長は1958年生まれ。福井県出身。バレーボールで日本を代表する選手として活躍。1984年のロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得した。
 三屋会長は「熊本は6年ぶりです。今日はバレーボールの話をします」。私は身長が178センチあります。出身は福井の山の中の小さな町です。私は小学6年生の時に170センチありました。同級生では飛びぬけて高く、嫌なことが沢山ありました。どうやったら身長が止まるかと悩んでいました。死んだ方がいいとも思いました。
 ところが、中学校に入って、先生から「人間は考え方ひとつだ。身長と一緒に生きていくんだ。身長を生かすことだ。お前はバレーをやれ!」と言われました。先生はバレーの顧問でした。
 それで、バレー部に入部しました。練習は大変でしたが、チームワークも生まれ、素敵な自分が見えてくることもありました。それから何年か経って、ロサンゼルスオリンピックが近づいてきました。練習は体育館で毎日15時間。朝早くから夜遅くまで、練習を続けました。冬の帰りはいつも真っ暗。「バレーを辞めたい、楽に生きたい」と思うことが増えてきました。それでも、どんなに偉い人でもつらい、苦しいと思う時があったといいます。体育館に行かないと問題は解決しません。頑張り続けました.そして、円形脱毛症、貧血症、睡眠障害にも患りました。
 私にとって、一番幸せと思う瞬間は、監督から「ラスト一本!」と言われた時です」。終わりがあるのは幸せです。そして、ロサンゼルスオリンピックで戦いました。金メダルを目指しました。しかし、準決勝で中国に敗れ、結果は3番目の銅メダルでした。「負けて悔しい銅メダルです」。しかし、自分にだけは負けませんでした。これが私の大きな財産です。

「バレーボールの練習はつらいものでした」と語る三屋裕子会長
「バレーボールと私〜いつも燃えていたい」の講演タイトル
三屋裕子会長の講演を熱心に聴く出席者
「私は自分にだけは負けませんでした」と語る三屋裕子会長
壇上の三屋会長に質問する、一番前列の婦人
質問に答える三屋裕子会長